Nippoku Style | 子を思う親の気持ち
 
【 今日の内容については 本人の承諾を得て掲載しました 】
 先週の30周年記念式典で配付した「記念誌」を読んで、多くの方が「感動した」と話してくださいます。みんな口を揃えて、「卒業生達の文章がみんな良かった。」と言ってくださいますが、特に、次の文章に感動された方が多いようです。
 この文章は、本校12回生の「岸本海織」さんが書いたものです。
 岸本さんは現在、東京農工大学で講師をされていますが、略歴を下に載せておきます。
   岸本海織(きしもと みおり) 獣医師・獣医学博士、東京農工大学農学部獣医学科 講師
      平成7年3月      県立日立北高等学校卒業
      平成7年〜平成13年  国立大学法人帯広畜産大学獣医学科
      平成13年〜平成18年  動物病院勤務獣医師
      平成18年〜平成21年  岐阜大学大学院連合獣医学研究科博士課程
      平成21年〜平成22年  日本学術振興会特別研究員、東京農工大学特別研究員
      平成22年8月〜    現職
 悔しかった。内心ホントはとっても悔しかった。
 
 そろそろ「入試」というものが実感を帯び始めてきた時期の、ある模擬試験の結果の良し悪しを皆で冷やかしあっている時のことだった。自分では会心の出来であったにもかかわらず、トンでもなく悪い点数を取ってしまった。しかしクラスメイトの手前、それを悔しがったりすることは格好悪いものに思えて、体調が悪かったとか、苦手なところばかり出たとか、へらへらと適当な言い訳を弄んでいた。
 そこに担任が現れた。次はがんばれよ、といった様な檄が飛ぶのだろう、と誰しも思ったはずである。ツギハガンバリマース、という返事を用意して、次の授業の準備のために身を翻そうとした僕らを襲ったのは、例えようもない歪んだ形相と、想像もしなかった檄であった。
 
「悪い点を取ってヘラヘラ笑ってるんじゃない!!本当に努力してるなら悔しくて涙が止まらないはずだろう!!」
 
 耳から下垂体が飛び出るほど驚いた
 
 悪い点を取ったことに怒っているのではなく、どこかで努力を表に出すことを恥ずかしいと思っていることに、そしてどこかで、眠れないほどに将来を案じ、努力できていないことに、この人は怒っているんだ、と、まもなく気付いた。現校長の柴原宏一先生そのひとである。格好つけてやり過ごしていては、自分の望む道など進めないのだと気付かされた瞬間であった
 
 それから、僕らは変わった。
 
 君達が望むなら、毎日放課後に補習をやるけどどうする?という問いかけに、全員が手を挙げた。君達が望むなら、夏休みに強化合宿をやるけど、どうする?ときかれて、全員が頷いた。全員が、死に物狂いの努力をすることに、プライドを感じる様になった。そして、実は、変貌した僕らを迎え入れるための環境を既に、先生がたは一丸となって用意してくれていたことにも気付いた。毎日深夜まで学校に残り、そして早朝から僕らの質問攻めに応えてくれた。
 
 彼らの惜しみない教育への情熱は、僕を魅了し、また進路に多大な影響を及ぼすことになった。柴原先生に憧れて生物系の大学を目指し、鈴木博文先生(前、高萩高等学校校長)に憧れて英語の教師を目指し、結局、英語を武器として生物学を勉強できる、獣医系大学を選んだ。そして現在、英語と生物学を武器として獣医学を教える、大学の先生になった。
 製薬会社等の研究者としての道も選ぶことが出来たが、どうしても「先生」になって、彼らから受けた恩を、後続を育てるという形で返したかった。
 
 檄を飛ばされた後、在学中どれほど僕が努力したかと問われれば、「今考えてみても、あれ以上は人間として不可能なくらいです」と胸を張って答えることが出来る。
 不幸自慢をするわけではないが、日立北高校には努力を支えてくれる先生と仲間がいたことを自慢するために敢えて暴露するけれども、当時僕には父親がなく、母親は胃ガンを患い、さらにはセンター試験の1週間前に他界し、3人の弟妹を育てる義務だけが残った。それでも窮地を乗り越えることが出来たのは、先生がた、そして彼らから本当に努力することの難しさを学んだクラスメイトが、惜しみない励ましを送り続けてくれたからである。日立北高校で僕が得たものは「人生」であった。
 
 自分が望むものになるために努力をすることは、決して恥ずかしいことではない。そして努力は隠すべきではない。誰もが努力を表に出すことで、周りの誰もが心おきなく努力することが出来る。これは就職、受験を問わず人生の大事における必要条件である。在校生の皆には、クラス一丸となって、今できる君たちなりの「本当の努力」を考えてみて欲しい。
 上の文章の中で、ご本人が「センター試験の1週間前に他界し」と書いてるように、彼のお母さんはセンター試験1週間前に亡くなられました。そのとき、私は平成7年1月11日付けで、「ご冥福を祈る」と題した、こんなホームルーム通信を書きました。
 昨日話したように、岸本君のお母さんが亡くなった。まだ若いのに、残念ながら病魔には勝てなかった。
 岸本君がどの程度みんなに話していたのかわからないが、この2年間、彼が大変な苦労を重ねてきたことはまちがいない。
 一昨年の11月、岸本君のお母さんから手紙をいただいた。その一部をみんなに披露しても、岸本君のお母さんはきっと笑って許してくれると思う。
 
『前略、・・・・・・・(略)・・・・・・・・・・・・・去る7月27日、○○の為○○病院に入院し、8月9日、胃、脾臓の全摘手術を受けました。9月22日、とりあえず退院したものの経過が思わしくなく、10月29日、日立市内の病院に再入院しました。
 ところが再入院3日目、今度は腸閉塞になり、おう吐、お腹の激痛の連続でした。日毎に身体が衰弱して行き、手のほどこしようがなく○○病院へ転院となりました。
 11月10日、ワゴン車に布団を敷き、横になっての移動と、ものものしい転院でした。自力で歩くこともできず、自分でも「もう、ダメかもかもしれない」と思った時もありました。でも、○○病院にきてからは、日に日に回復していくのがわかり、・・・・・(略)・・・・・・・家の事を、各自分担してやらせています。特に海織には、金銭(生活費、その他)の管理、弟や妹の世話、洗濯、その他あれこれと頼んでいるので勉強にさしつかえているのではないか・・・・と心配です。自分でも気が付いたら授業中、居眠りをしていた・・・・と、言っていたこともありました。受験期の大切な時に困ったものだ・・・・と情けなくなってしまいます。・・・・・(略)・・・・・・・海織は「お母さん、ちゃんと先生の言うことを聞いて治してね」と少し説教まじりに言ってました。
 わたしも4人の子供達の為にも自分のためにも、必死で頑張ろうと思います。
 学校での事、よろしくお願い致します。
草々        
 H5.11.18(木)   ○○病院にて 岸本こずえ 』
 
 この後、退院してからのお母さんの生き方は、私には凄いとしか表現できない。退院してしばらくは自宅で療養していたが、長期療養のため元の会社を解雇され、新しい会社に自分が病身であることを隠して就職。そして、一家の生活を支えるために以前にも増して働きだした。
 この時、岸本君は面接で「お母さん、いくら言っても駄目なんですよ。信じられないぐらい働いてるんですよ。自分では大丈夫って言うんですが、心配で心配で」と言っていた。
 また、昨年の保護者面談の時、私はお母さんの身体を心配して「後日でいい」と伝えたが、いの一番に面談にいらっしゃった。その時笑いながら「海織があれだけ頑張っているんですから、自分が倒れる前に面談してもらおうと思って」と、事も無げに話されていたのが印象的だった。
 そんな頑張り屋のお母さんも、昨日はベッドの上で苦しそうに喘いでいた。そのお母さんの額に浮かぶ汗を、岸本君はタオルで一生懸命拭いていた。
 苦しそうに体全体で呼吸している姿は、「海織が合格するまでは死ねない」と、死と闘っているようだった。
 そのお母さんも、昨日の午後4時頃、ついに帰らぬ人となった。
 私がお母さんからいただいた、便せん3枚に綴られたわが子を思う手紙。我が子への愛情にあふれた手紙をいただいてから1年と少し経った時、お母さんは帰らぬ人となりました。センター試験の1週間前にもかかわらず、クラス全員がお通夜に参列してくれ、会場からあふれてしまいました。岸本さんが書いているように、「クラス一丸となって」いたからこそ、みんなで参列してくれたのです。
 岸本さんも書いている「クラス一丸となって」が、30年続いた日立北高の特徴です。今の高校生達にとって、行事で一時的にクラスが一丸となることはあっても、長期間にわたって「クラスが一丸となる」という体験は、ほとんどありません。そんな中、日立北高は、受験というものをとおして、長い期間「クラスの一体感」や「クラスが一丸となっている実感」を生徒達が感じてくれたから、ここまでやってこられたのだと思っています。そのことは、今でも「受験は団体戦」という気持ちで取り組む生徒達の姿勢に受け継がれています。
 大学入学後の岸本さんは、3人の弟妹を引き取って中学・高校を卒業させながら、自分の夢に向けて頑張って勉強を続けました。そんな岸本さんが、「どうしても「先生」になって、彼らから受けた恩を、後続を育てるという形で返したかった」と書いてくれているのを見ると、涙が出てきます。
 今回、この文章を書くに当たり、内容が極めて個人的なことなので、岸本さんに事前に文章を送って了解をもらいました。その返事が、又ステキです。
自分で泣きそうになっちゃいました(−−;)
本当に、先生がいてくれたおかげで、あの辛い時期を「誇り」に思うことができています.
もう一度、高校まで時間を戻しても良い、と思えるくらい、大切な時間として心に残っています.
先生には感謝してもしきれません.ありがとうございます.
 
そして母から手紙が送られていたんですね.
時を超えて、また母の愛情に触れることができたことを嬉しく思います.
後続の人間に、母や先生からもらった愛情をリレーしていきます.
 私はこの日立北高で、人間として大切なことを教えてくれた多くの生徒達に出会うことができて、とても幸せだと思っています。
 「子を思う親の気持ち」に優るものはありませんが、「教員が生徒を思う気持ち」もそれに一歩でも近づけるよう、私たち一人一人が心がけなければならないと思っています。


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